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~今にも終わりそうな小説掲載サイト~
Author:水瀬愁

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4.


 朝。ホームルーム前。
 青空があった。白い雲は風のままにゆっくりとその形を変えている、――まあそんなことはどうでもいい。
「ま、ママ……」
「何も言わなくていい。というか聞かないでくれ。っていうか、あんたのママじゃない」
 私は満身創痍になった。寝たきりにならなかったことが不幸中の幸いである。
 ――いや、訂正しよう。なぜなら、私が不幸の内に居たのかはまだ不明なのだから。
 これからじっくり、検証しなくてはならない。その前にまず、歩けるようにならなくてはならない。
「すまないが、購買部で何か買ってきてくれないかな。100円までで」
「う、うん、いいけど。でも、全品百円以上であることを忘れてるなんて、よっぽどの事があったんだね」
「すまないが、購買部で何か買ってきてくれないかな。ひとつカシで」
 検証のための捜索には、足が必要である。なのに私はこの様だ。
 ――わかってもらえるだろうか、このどうしようもない艱苦かんくを。
 すごく近いこの高校にも親に送迎してもらわなければならない。飯ひとつ、頭を下げなければ手に入れられない。
 限りあるプライドの消費を少しでも抑えるため、親に弁当を作ってもらうような結果はなんとか回避したが(常は自分で作る)、友達に頼まなくてはならぬという五十歩百歩な展開にしかならなかった。
 無力感が、どでかい。
 ――わかってもらえるだろうか、このどうしようもない痛痒つうようを。
 さらに補足すると、|よっぽどの事があったと思われる(レアな)私への周囲からの視線がキツい。孤立感はいつもどおりなのだけどな。可哀想な目ってのが新鮮で、耐性が無くて、駄目か。
 ――わかってもらえるだろうか、
 落ちていく中で私は、咄嗟に手を差し伸べたのに、悲鳴を鎮めてあげるためにはちょっと遅すぎたのだ。
 悪魔という殻に篭もった天使が、脳裏に浮上する。何もわからないけれど、ただただ胸騒ぎだけが疼く。
「私のオススメのメロンマロンバレンタインパインパンをね、買ってきたのね!」
「わかった。まず君が先にそのカオスパンを食してみてくれ」
 このどうしようもない懊悩(おうのう)を。
 または苦慮や煩悶、憂苦でも可。


 そして夕刻。
 少しでも多く休養をとるため、傷ついた身体を引き摺って帰路に着いた。
 だが不思議なことに、私は道に迷った。
 いや――見知らぬ洋館の一室に迷い込んだ。
 いっぱい棚があった。オーロラのようなものを吐き出す真紅の石が、棚に置かれたもののすべてに埋め込まれている。石の光は、遠いものも近いものもまるで目の前にあるかのように輝くので、眩すぎて直視できない。
 目を細めたその直後、音がした。音叉が鳴らしたような、頭に響く高いその音は、まさに天使のそれ。
 "ド"ではなく"ファ"であったことを気に留めておく。ずっと聞こえ続けるから、いつか無意識的に除外してしまうかもしれないので。
 石にできるかぎり目を向けず、私は棚がつくる真っ直ぐの道を行き――婆の前まで歩み寄った。
「誰何?」
「やあやあやあやあ、ここはお手伝い屋さん。願いを言ってごらんなさい?」
 しゃがれた、婆の嬉しげな声。古びた木の机に、軽やかなテンポで中指の腹をぶつけているのが耳障りだ。
「願いを叶える、などと非現実的なことは信じない」
「……ほう。まだ欲心に囚われていないのかい。そりゃ困るねぇ、どれ、もういっちょ積んでみるかな」
 婆は机の縁まで両手を下げる。そしてガタンと大きな音がした途端に、机がガラスショーケースに取って代わった。
 その内には、単に真紅の石だけが並べられている。
(ま、ずい――ッ)
 気づけば体と心が離れていた。今このことを思う自意識わたしは、心の方にある。
 体の方は、目を半開きにして、顔から生気をなくし、ゆるゆると目の前の石へもっと近づこうとしている。まるで、漫画でみたゾンビのそれと全く同じだ。
 第六感が告げている。これ以上は、分離だけで済まない。
 空白になってしまう感覚がついに訪れたとき、途端に総てが通常へと巻き戻った。
 いや、それだけではない。
 視界を埋める石の光も、洋館の一室すらも、消えた。
 空き地のような場所に、私と婆は居て、
 ――初対面の少女も、居た。
 けれど、知っている顔ではあった。
「チョコ・・ヴィータ」
 黒が基調の、紫の意匠がされたそのコスプレは、まるで魔女。と言っても、そこらへんの童話に出てきそうなものではない。男受けが良さそうな、肌色の多い服装である。絶対領域もちゃんと装備されているようで、アキバにかりだされたとしても通用しそうだ。
 私のもあんなのなのかなと、二度も変身しておきながらいまさら私は恥ずかしくなった。


 私のそれとは全く別方向の"圧倒"で、魔女はこの場に静寂を打ち落とした。
 私の目の前には、綺麗な超巨大仙人掌が出来上がっていた。まるで水晶のようなその針山は、私の目と鼻の先にまで槍を伸ばしてきている。下敷きになった婆は穴だらけかぺちゃんこだろう。
「……逃げられたわね」
 私の予想に反し、魔女はそう呟いた。
 空中浮遊していた彼女は、とんっと力強い音をたてて片脚で着地し仁王立ち。コスプレが光り輝いたかと思うと、黒いドレスに変貌した。
 彼女の目がすっと私に向いたので、私は咄嗟に変に力を込めてしまった。だが、どうやら、私と対峙するような位置に降り立った彼女は、私など眼中になかったらしい。
 後ろに振り返りゆく彼女に、ちょっとした清らかな笑みが浮かんでいたように見えた。
「でも上出来じゃないかしら。悪魔デビル
 その瞬間、私は雷のような衝撃に撃たれた。
 ここからは見えないが、魔女だったあの少女を隔てた先に在ると確信していた。
天使エンジェル――ッ!」 
「真反対な名で呼ばれているわよ。どう答える?」
 私の一声に、彼女が振り返った。そして、小さな唇に細い人差し指を当て妖しく笑うと、傍にいる悪魔へ返事を促す。
 悪魔は、一度私に向けてきたあの笑顔で、言った。
「キッショ☠」
 私は怯えのようなものを覚えた。挫けかけた。
 そんな私を我にかえさせたのは、少女の勝ち誇ったような顔。
 私と天使のことを何も知らないくせに。と思う。
 だから私も、少女と悪魔のことを何も知らないくせに、不敵に笑ってみせる。
 そして再び悪魔へ向いた。
「聞いてくれ、天使。君が話してくれないから、君の心情を予想して私は言うよ。ちょっとした誤差は許してほしい。広い心を持って、聞いてほしい」
 すぅっと息を吸う。気合を入れる。
 なぜなら、これから悪魔よりも魔女よりも悪くなるからだ。悪魔や魔女を騙せるくらいに、悪く。――清らかに。
「――強がりだったんだ。私は何も、方法を知らないから。どうもしてあげられなかったから、あんな態度をとるしかなかった。
 本当は、天使と同じ気持ちだよ」
 変貌はすぐに起こった。
 悪魔くろいからを纏ったまま、天使なかみはびよぉぉ~んと左右に伸びた。
 バリバリと音がして、罅が無数に走るとともに悪魔が砕け散った。
「わふー♪」
 飛び出た天使は、すこぶる元気な様子で疾駆。
 そして、ぴょんっと私の胸の中に飛び込んできた。
「信じていたのですよ疑ってなかったのですよ優しい方だと解っていたですよ~♪」
「嘘こけ」
「う、嘘じゃないですの!?♪」
 今度は少女へ、私が勝ち誇った笑みを向ける。
「それじゃあ天使、そろそろ……奴めを追うとしようか」
 そして、魔女のそれとは全く別方向の"圧倒"を見せ付ける。
 我が"圧倒"の名は、牙。逃れられぬもの、つまりどこにいても察知できるもの。
「変身――」
 "ド"が響くと同時、私には行くべき戦場がハッキリ見えた。


 光無き闇の天空で、ギン、という甲高い金属音が響く。神話の刀剣と同名をもつものと、長刃のような爪とがぶつかり合ったのだ。
 刀剣の担い手は少女。爪の持ち主は装甲まみれな重装兵、且つ一切の光を拒むような深い闇色の獣。
 機械仕掛けの本能。だが今は、総てを束縛、支配されて従者と化している。
狩狩カカッッッ!!」
『ほう……追いついてきたのかえ? やわなじょうちゃんでは、ないようじゃの。』
 主人が内側から・・・・話しかけた。
 若干ノイズが混ざっていて、聞き取りにくいものである。だが、そのしゃがれ声が真紅の石を見せびらかしていた婆のものと一致すると、少女は確信できた。
『ま、ええわ。話し相手に逃げられたところなんでな、ちと相手してやるわい』
 本能の頭部に、不規則なテンポでカチッカチッと回る螺旋型片眼アイがある。それが三度か四度鳴ると、本能の全身がチック様の痙攣を起こし、次の瞬間には、金属板がボコッと凹んだときのような音を鳴らす。その度に、装甲が大きく揺れて摩擦音が鳴る。
「不細工だな」
『だが強いぞ? むすめっこは貧弱で何の価値もなかったが、こんなシロモノを無数に生み出せる可能性は秘めていた。快楽を感じたよ。そして、確信を得た。ああ、わしはあのむすめっこを拾うためこれまでは運の総てを温存してきたのだ。とね』
「何の話だ? ――いや、よそう。なんとなく察しがつく。わざわざ聞くたくはないな」
『では切り合うかの』
 螺旋の平たい表面で、溢れんばかりの紅光が炸裂する。一度は少女を翻弄したその威圧だが、二度目はない。
「その程度の誘惑、ガン見でも寄せ付けぬわ。――では、血祭りにあげてやろうかの?」
 あるのは三度目。婆の口調を模倣するような、お茶目な少女が執行する。
 それはたった一人が娯楽たのしむためだけの地獄。


 少女はなめらなかな動きで、連続でナイフを投げる。八つで一セットだが、そのうち半数しか敵へ向かわない。
 『兵団』の構築が予想される。
 だがそれには、二つの問題が付きまとう。『兵団』完成までの時間稼ぎがひとつ、『兵団』の射線上に標的を固定しなければいけないのがひとつ。
 後者は、大規模となれば解消されてしまうだろう。なら狙うは、より強調される前者。
 ――その結果、余裕だと機械仕掛けの本能は、その狩獣かりゅうどの繰り手は結論に達した。
 少女にとって三度目となるこの交戦は、少女に"能力的有利性"を持たせていない。いうなれば、一度目と二度目は"少女が圧倒できる"と数値が示すイージーな戦闘だったのだ。だが今回は、少女と敵は互角、いや、狩獣の繰り手の結論を借りるなら、少女は敵よりも弱い。
 少女が為す圧倒には数値に示されない力が必要。少女は不確かなそれをまず理解し、掌握し、自在とせよ。その後に、圧倒イメージ現実リアリティ連結リンクさせ、終幕を担え。
 でなければ、少女に明日はこない。
 狩獣は、螺旋ネジの目で全体を捉えるのに数瞬かけ、少女が織り成す牽制のための弾幕の欠陥を見出す。そしてその穴をくぐり、いとも容易く、進攻を開始した。
 だが少女の望む、時間稼ぎという目的は達成できる。だから少女は、軽々と掻い潜られてしまう障害を何度も何度も作っていく。
 狩獣はその度に適切な行路を見つけ、少女との距離を詰める。数十度目、『兵団』の一部を解体し、少女はついに隙間無い一個をぶつけることとした。
 今度こそ躱せない。
 しかし、躱せないのがどうというのだと言う風に狩獣は得物で手近な空間を抉る。それに伴う強烈な衝撃が八方に炸裂し、回避不能な必殺の弾幕を粉砕した。
 これをもって狩獣は、凌駕が容易い"力押し"が解決策になりえないと、少女に伝えるのだ。
 生き残りたければ壊してみせろよと、勝ち気に瞳の光を躍らせる。
「ッ」
 ――すると、それに応えるように、狩獣の胴体と下肢を断ち切らんとする一突が降ってきた。
 だが、突き刺さるだけで押し留まってしまう。今までの敵だったなら両断は必至の剛速だったが、狩獣は今までのとは違うのだ。
 だからこそこの罠に嵌ってしまったのだと、言える。
 『伏兵』のように、不意打ちという形で登場してきたのは銀色の大十字架、神話刀剣バルムンク。いつもの『伏兵』と材料が違うという点は、狩獣の予想を上回る事実を明示する。
 つまりこの三度目も、お遊びであると。
 ――少女は小さく笑った。
「完成。『兵団』」
 満を持して、一個が君臨した。
 必殺を数百束ね、消去という力を孕む。まだ神には届かずとも、その世界おとしごくらいは易々と抹消できるだろう。
 さすがにこれには狩獣も危機感を得たのか、宙を蹴って・・・回避しようとした。だが、動けなかった。
 これは『封結』がバルムンクでも行使できるという、実験証明である。
「……此度はサッサと終わらせる。懸念事項が気になって、仕方がないんだな」
 その言葉通りであれば、少女が牽制しながら渾身の一撃を編み出して敵を打ち倒したという簡単なチャートだった。
 だが狩獣は、得物を振りかざし、自身を包む黒い衝撃を巻き起こした。それは空間を抉ったときの余波とは比べ物にならない。いうなればそれこそが本来の"爪撃"の威力である。
 必殺においても上段に位置するであろう"爪撃"による防壁は、頑なな砦も同然。集まれば消去な『兵団』を必殺という要素から取り崩すことだろう。しかしそれは竜巻のようなもので、いつかは掻き消えてしまう。
 対し『兵団』は、その機を待つようにピタリと止まった。そうして衝突を避けた後、『兵団』は再び進軍を始めた。威力は、止まる前のまるのままだ。
 結果は、あえて言わないでおこう。一匹の獣が大量殺戮兵器に勝てるはずがない、という不等式は誰も疑いようが無いから。


「無傷とは、恐れ入った。我が愛剣に相応しいな」
 『兵団』の直撃を敵と共に受けたバルムンクは、傷一つ負っていない。
 少女は満足げに呟く、未だ緊張に強張ったままの顔と一致しない。
「――あの婆は所詮、宿主だ。本体がどこかにいるはず」
 そして遥か彼方を見つめ、言った。天使が返事する。
『近いです♪ でも、それとは別にもう一つ、感じるです♪ まるで私のような……♪』
「何?」


 月光を帯びた花園が、光の一切閉ざされた牢獄の中に出来ていた。
 その真ん中で、三角座りした銀髪の少女。影が無い。それどころか、花が帯びているのと同じ光を発していた。
 聖女と言われれば信じれそうな、神秘的雰囲気を醸し出していた。瞳は白く見える、無色だった。
 裸足だった。
「すごいとこね、ここは。花は本物なの?」
 声がした。少女は人形のように整った顔に感情を宿さぬまま、無垢っぽさを窺わせる柔らかなソプラノトーンの声を囁き、返した。
「ううん。嘘物。見たことはないから、ただ気持ちの赴くまま、作ってみたの。素敵かしら?」
「ええ。でも、やっぱり無知なのが解るわ。矛盾してる、この場所に月が無いせいで」
「仕方ないよ、婆さまは私を閉じ込めるのだもの。では、月を打ち上げましょうか? そうすれば素敵になれる?」
「いいえ。今のままでは、きっと無理よ。どうすればいいか、わからない?」
 わからない。だから少女は、振り向いた。
 その途端に、魔女の魔力に惑わされる。
「美しき新しい世界を見てみればいいのよ。――私が作るものを見れば、あなたは素敵なものを作れるわ」
「今の世界は、駄目なのかしら……?」
「ええ、駄目よ。ついてくれば、わかるわ」
 魔女は惑わせる。
 だがもしかしたら、魔力など用いていないかもしれないけれど。


「チョコ・L・ヴィータ」
 辿り着いた目的地に、予想外の人物が居たので、私は驚いた。
 タンッとこちらが降り立つのを凝視してくるのは、やはりあのアイドル。あの魔女。あの、泥棒猫。
 天使を取り戻しに来たか、と一瞬だけ思う。だが、そんなことよりももっと有力な案を思いつき、思いついた我自身を疑った。
 しかしそれも、情報が足りなかったからだ。目の前の少女は、まるで私の疑念を払うように、スッと片手をあげた。
 その手の人差し指にかけられた、銀の鎖。それの繋がる先に、黒い玉がある。ダイヤ型を丸めたような、細長いそれは、銀河の煌きのようなものが見える。
 宇宙を一塊にしたらあんなものかもしれないと、思った。
「これは、悪魔の滓を固めたものよ。私の大事な友達が、そうしてくれたの」
「……あんたに憑いてる、音か」
「音というの。知らないけど、たぶん、そう。なんなら、尋ねてみる? ちょうど、あなたの目の前にいるけど?」
 少女はこちらに、ペンダントを突き出した。私は横に首を振る。
「遠慮する。それよりも意図を窺いたいな。悪魔の骸に、なんの価値がある? いや――大体の予想はついているのだけど、一応ね」
「予想通りだと思うわ。今、私の返答を見せてあげる・・・・・・
 "ド"の音が響き渡った。違和感を抱いたが、それどころじゃなくなった。
 視界がブラックアウトしたのだ。
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「そう、ブレインク前なんだ、大変だねぇ」
 政治家だか実業家だか分からなかったけど、とにかくこの業界に大きい権限を持つ人だってことは聞いたことがある。
 少なくとも、それで十分だった。私にとって、マネージャーの彼にとって。兎も角、その人と私とは、今日、スウィートルームで二人っきりで会う。
 所謂、"営業"というやつだ。マネージャーの彼が選んだのだから、相手のおエライさん・・・・・・は私に不正当な「芸能人としての評価」をふんだんに注いでくれるのだろう。
 そして、更に穢れた私は、もっと多くの邪な目に留まるだろう。
「……私の大好物、くださいますか?」
 本音とは裏腹に、魅惑的にそう言ってみせる。床に手をつき、犬のように地面を這ってあの人の側までにじり寄る。瞳を潤ませ、熱いばかりの吐息をそっと溢す。
 小さい体いっぱいに欲情してみせるだけで事足りる。淫猥で愚かな闇に理性も何もかもお喰われ尽くされた奴など、それで十分であった。
 誰も体しか見ない。だから、誰も心までは触れられない。
 そこに潜む刃に、哀れな奴らは誰も気づかない。


3.


 三日だった。
 赤い日が昇り、眠りから目覚め、目蓋を開ける。そして、日常をまるで何事もなかった・・・・・・・・・・かのようにつまらなく・・・・・・・・・・送る。
 赤い日が落ち、眠りに沈み、目蓋を閉じる。その繰り返しは、三度で終わった。
 体感でいえば、息を吸って吐くほどの一瞬でしかなかった。夢とはえてしてそういうものなのだろう。夢のような三日もまた然り。
「――ッ!?」
 三日目の夕方、赤い日が街並でできた地平線の下に落ちる寸前、帰宅し玄関のドアを閉めた瞬間に、私の夢は終わった。
 現実がもどってきた。
 失恋の痛みがいろいろな形で私を蝕む。車酔いのような吐き気と気だるさ、息のできなくなる圧迫感。
 私は堪えるということがアッサリとできなくなる。しかし諦めきれず、無我夢中になって、左胸に爪をたてた。
 掻き乱されて死んでいく。それと同時に、私は憎しみを抱いた。
 許さない。
「壊してよ――」
 変えてしまいたい。壊れてもいいから、変えてしまいたい。世界を思うがままに、変えてしまいたい。
 願っても、今度は叶わなかった。
 声はもう、私の傍には居ない。
 ちょっとの間は悲観に暮れた。絶望の底に落ちていくしかないと思った。そう思うと、何もかもがどうでもよくなった。そして気づけば私は、形振り構わず叫んでいた。
「壊してよッ!! そこに居るんでしょ、聞いてるんでしょ!?」
 身勝手な怒りに駆られた。理屈のない罵声を突き立てた。感情を当たり散らした。全部が全部、空振り。
 私は独りだった。
 破損した家具や飛び散った靴に、落ち着きなく視線を泳がせる。
 少しして、足音が聞こえてきた。攻撃音か私の叫びを聞き取った家族が、足早にこちらへやって来るらしい。
 今ならまだ間に合う。
 目の前にある廊下、その末にあるドア。そのドアが開くまでに、私は決断せねばならない。
 そのドアが開けば、変わる。
 今ならまだ間に合う。
 私は身動ぎ一つしない。運動した後のように肩で息をしながら、ジロリとドアに目だけを向ける。
 だらんとした口元からゆだれがドロリと零れ落ちる実感がした。それと同時に、視線の先のドアがキィッと音をたてる。ドアノブが回ったのだ。
 もう間に合わない。ドアが開く。ドアが、開いた。
 その途端に広がった動揺の色は、どこか心地良い――というより、吹っ切れたような、殻を脱ぎ捨てたような、爽快感をおぼえさせた。
 私はゆだれを垂らしたままの口元を、笑みの形に歪めた。私の胸の中で何かが壊れる音がした。
 それもどこか心地良い、崩壊の音色だった。

 また――
 何もかもを忘れる魔法が、ほしい。


 ただ惰性のように生きていた。
 起きて、仕事に出かけて、食べて、寝て。
 体が覚えていることを繰り返す、そんな日々に生きていた。
 体を痛めつけるように働きつづけた。
 何もかもを忘れたくて、総てを顧みずにひたすら仕事をし続けた。
 現実を見つめれば、足元から崩れ落ちてしまいそうだった。何も考えないように生きていた。
 俺があいつに出会ったこと、付き合い結婚したこと、そのすべてが間違いだったと――
 でも、そう思い込めたのは一日足らず。いつしか俺は、彼女の残滓を貪るような毎日を送るようになっていた。
 毎朝起きる度、鏡に自らの顔を写すと、死んだ魚のような目と痩せこけた頬が見える。
 これが現実の輪郭なのだと、俺は迷うことなく納得した。その度、俺は俺自身を睨んだ。
「ッ!!」
 今日は少し違う。ついに見ていられなくなって、俺は拳を振りかざした。
 破砕音が響く。渾身を込めた手が、ズキリと痛む。腕や頬にも硝子の破片がかかっただろう。
 けれど、嫌な物をこれ以上見ずに済んだ。
 俺は笑っていた。喜びを感じてか。――違う。自分があまりにも哀れだからか。――違う。
 何でもなくても、笑いが止められなかったんだ。
 俺は踵を返し、ベッドのある自室へ戻ろうとした。睡眠を貪りたい気は毛頭無かったが、意識は簡単に手放せそうだった。
 だがドアノブを回した先に、いつもの風景は無かった。

 いつまでも彼女が傍に付いていてくれる、気がするままでいたい。
 何もかもを忘れない魔法が、ほしい。


 青空が澄み渡る昼下がり。和やかに談笑している声が耳に入ってくる。
 ――が、どうでもいい。ぶっちゃけ、もっと静かなとこで昼食をとりたい。むしろ寝たい。
「ねぇ、絶対好きよね?」
 未開の洞穴とか発見できないかな、とボンヤリする私にお呼びがかかった。
「何の話かな。すまないが私は、ふんわり甘めの卵焼きの摂取に忙しかったのでね、聞いたことはすべて素通りしていた」
「あ、うん、卵焼きは美味しいよね。でね、話っていうのは、最近デビューした『チョコ・・ヴィータ』のことなんだけど」
「美味そうな名前だな」
 そういえば、そろそろバレンタイン二ヶ月前か。
「私、芸能人のことが好きでさ、新人とか調べて勝手に評価するのがもう趣味になってるんだけど、チョコちゃんは全然知らなかったんだよね。名が売れそうって思った人はブックマークに入れとくんだけど、あんなはほんと全然知らなくて、私の情報収集力もまだまだだなぁと悲観に暮れてたりしたのよ。
 でね、さっきその事を話したら、チョコちゃんのことをやってたワイドショーをたまたま見てた子が、驚くべき事を教えてくれたのよ。――チョコちゃんって、無名の頃がないんだって。下積みナシよ? スカウトの場合でも、最初は人気が無かったりするのにさ。
 手に取る雑誌の表紙はほとんどチョコちゃんが載ってるし、ネットでも話題の中心だし、前からいた人気アイドルを今更知ったみたいな感じ? 一ヶ月でファンクラブの会員数が五万超だって噂だし、シンガーソングライターや声優の仕事も兼ねることができて、アニメ出演とコンサートの予定ももう決まってるみたい」
「オイ、前置きが長いぞ。さっさと質問を示さんか」
 弁当箱の中身をぺろりと食べきってしまった。私は感情を押し隠すことなく、ジト目で睨みつける。
 すると彼女はあ、あははー、と渇いた笑みを無理矢理作って"どぅ、どぅ(馬か何かを鎮めるあれ)"と手をひらひら振る。
「チョコちゃんね、グラビアもやってるのよ。ランドセル背負って、小学生の体形を存分に生かして。それなのに、仕草とか口調が大人っぽいというか、艶っぽいというかさ。それで、私はネットでの仮説が本当なんじゃないかって思って」
「仮説、とは?」
「体でどうにかしてる」
 頭痛が襲ってきた。
「ねぇねぇ、どう思う?」
「どう思うも何もありません。そういう淫猥な話題は慎みなさい。万年発情中男子の仲間入りなんて、許しませんからね」
「わー、ママが怒ったぁー」
 彼女は大袈裟にリアクションして、教室内の別のグループに突撃しにいってしまった。私にしたような質問を、また尋ねるのだろう。
 普通は、グループ内での話題でそこまで掘り下げようとはしまい。謎は謎のまま終わり、すぐに別の話を花咲かせるのが一般的というもの。まあ、グループ外にまで持ち込めるのも、人懐っこい彼女の性格やそれによって構築された広大な友好関係があるからこそできるのだろうな。
 その点、私は"頼る"という選択肢にひとつの信頼も置けない。無理をすればどんな人をも手篭めにすることも可能(昔に一度、苦笑混じりにそう評価された事がある)かもしれないが、日常の大部分を占める学生生活でそんな吐き気のするスタイルを保つなんて疲れるから嫌だ。
 やはり天然が格別である。
 …………目の保養にもなるし。
 べ、べつに、本能が理性を越す事が多すぎて、猫を被っても正体が暴かれてしまう可能性が高いんじゃないからなっ。勘違いするなよっっ!


 座るベンチの堅さに耐えかねて、男は眠りから覚めた。
 まだまどろみの中にいるのか、黒空をぼぉっと眺める。そのうち、ふと思い出したように右のズボンポケットからある物を取り出した。
 ペンダント、だ。ロケットのようなものではなく、輝石に糸を通した芸術的な装飾品である。
 それの魅力は別にある。
「願いが叶う、か……」
 男はそれを渡されたときのことを思い出していた。彼女が言うのだから・・・・・・・・・当然願いが叶う・・・・・・と思う。
 他人が男のその心境を知れば、ほとほと呆れていただろう。
 だが男も、信じていたのはほんのすこしだけである。といっても、ほんのすこし・・・・・・は一般的な強弱ではなく、欲望を解放してしまうことの理性への言い訳だ(が、男は冷静な判断力が無いのかそれに気づかない)。
 男は小石一つで、強大な力をもったときのような優越感すら得ていた。
「そんなもので願いが叶うはずないじゃない」
 しかし、男を醒ます一声が飛ぶ。男は驚いて、隣を見た。少女が座っていた。
 男はこれまでの経緯を思い出した。男が開けたドアの先に、見知らぬ風景とこの少女が在って、どういうことかわからず困り果てていると誰か人がくる気配がして、今いる場所が誰かの家だと気づいた男は一目散に逃げ出したのだ。
 泥棒などという濡れ衣を着せられぬために。少女を連れて・・・・・・
 その咄嗟の判断が、男は今になって漸く間違いだとわかってきた。男は少女も自分と同類・・だと誤解したのだが、少女は一人で歩けぬなどの身体障害とそれ以上に厄介な障害・・・・・・・・・・を持っていた。少女は警察にでもなんでも保護されるべきだった。
 そして男は、時折おかしく笑い独語し、悲しみ嘆き蕩ける、まるで破綻している少女に不気味な圧力を受けながら、今いる公園に着いた。
 休んだ結果がこれ、男は仮眠をとる前と同様の疲労感を抱く。
「いや、確かにそうだろうさ。でも、誰しもそういう非現実的なオブジェには惹かれるだろう?」
「非現実的って解ってなさそうだから、……ひッ……言ったの。でも解って……ひッ……いるようだから、別にもういいわ……ひひッ!」
 少女はゆっくり舌足らずに嘲笑うように、よく笑い声を混ぜ込んで、しゃべる。
 最後に瞳孔を縦横無尽に泳がせて、発条ぜんまいの切れた人形のようにカクッとこうべを垂れた。
 男は一瞬言葉を失い、我に返ってすぐぶんぶん首を振った。少女の言葉を振り払う、動作である。
 つまり、男は非現実的ととれる事実とオブジェを非現実的とは受け取っていない。
 男は再びペンダントの輝石に酔いしれた。そしてはたと、何を願うかを考え出す。
 絶望に打ちひしがれる中、真摯に願っていたものがある。しかしそんなものでは、男の気がすまなくなっていた。
 望むなら、現実で最も不可能なこと、
 そう、死者蘇生レイズデッド
「――願いが叶う瞬間を、見せてやる」
 男が腰を上げた。夜闇に包まれる大地と鉛色に閉ざされた空の狭間へ差し込むように、あるいはそこから引き出すように、男のペンダントを持った手は上へ上へ掲げられる。
 無理だという醒めた少女の目が二つと、奇跡が起こる喜びに今から震え上がる男の目が二つ、ペンダントへ注がれる。
 その中で、輝石はあいもかわらず不思議な色合いを演出している。
「――」
 未知なることはすべてとりあえず横へ置かれ・・・・・・・・・・、輝石は発動した。
 だが、戦闘開始のファンファーレまでもが輝石に担われているわけでもない。
 無音、無色、つまり何も起こらない。
 その場では。今すぐには。


 大空を翔る。
 其れは与えられた身体うつわを、傷つけぬほどに酷使して、翔る。
 目的があるから。目標があるから。目的と目標は、其れにとって存在意義であり総て。
 得失は、其れにとってどうでもいいことだ。いうなれば遂行とは、其れにとって、呼吸することと同等の価値をもつ。
 遂行を断念すれば死を。躊躇うだけでも苦しみが待つ。
 だが其れは、呼吸をやめる恐怖に駆られて、遂行を徹するのではない。知らないのだ。遂行以外の行為を、死や苦しみを得るための行為を。
 其れは赤子のごとく、無知が多い。
 だが――遂行以外に、たった一つ、知っているものがある。
 排除。
 そして二つ目のものは、翔ること二分足らずで始動する。
 行動への移行は迅速だ。そのすぐ後に、とある一箇所からの拡散の威力を以て、大気が移動を行う。
 風が其れの全身を打った。だが、其れは目を細めもしない。排除のために必要なのは、対象を見失わないことただそれのみ。
「……またも、変身シーンはカットだよ。腹立たしいから、君に八つ当たりしていいかな?」
 大空には障害物も、被害を受けるかもしれない人々やオブジェもない。
「――答えは聞いてない。ゆくよ」
 それら総てを好都合と見て取ったのか、真意は知れない。
 しかし、少女は嬉しげに呟いた。


 少女は、衣装は前と同じ。しかしこの度はあの度と違い、余裕がある。
 だから少女は、この度は、身に滾る力に"型を形作るネーミングしていく"こととした。
 対峙する其れに向かい、まず手始めに、
「『伏兵スパイビー』」
 切りかかる少女。その頭上を過ぎ、援護突撃を繰り出すのは、斬切の前に少女が待機させた兇器の数々。
 其れは二つともを躱した。
 サイドステップ二度で距離も開ける。其れは、少女を撒くことを考えていないようだ。其れは少女に真っ直ぐ向き合っている。
「――っ」
 次の瞬間、其れの攻撃意思が具(・)|現化(・)|し
 爪を模した銀色の鉄剣、または艦船に孕まれる砲のような太く長い鉄塊バレルを思わせる、其れの剥いた牙の正体は腕。
 人の皮の内に隠されていたとは思えない巨大さだが、確かに存在している。
 其れが笑った。引き出した得物の強さを把握しているからこその、余裕であろうか。
 少女はその笑顔に、返答を送る。いや、撃ちつける・・・・・
 少量だがお取り置きされていた、先ほどの『伏兵』である。一陣目と射線が全然違うが、直撃だった。少女は、、一度与えた加速度を"押し留めること"だけでなく"方向性を変化させること"すら可能なのだろうか。または回避後の相手の位置を予測していたのだろうか。
 どちらにしても、少女が不敵な笑みを浮かべることを誰も咎められはしない。
 ――結果的に、生け捕りが成り立ったのだから。
「『兵団ウェポーン』」
 少女は両手に八本の攻撃を携え、放つ。だがそれは『伏兵』と同等の処置がされていて、滑空はまだしない。
 再び少女が『伏兵』を同数発生、十六、二十四、三十二、四十……結果、八十もの大群によって"豪雨"が出来上がる。
 少女が指揮した。『伏兵』のバリエーションのような『兵団』が一直線に、引き裂く大気をひとつの渦に見立て、敵へ向かう。
 だが『伏兵』と違い、『兵団』は剛を優先されただけの単純な攻撃だ。少女以上の身体能力があれば、避けるのは容易いだろう。だからといって、その欠点を補うように、避けきれないほど大きいわけでもない。つまり今のままでは其れに躱されてしまう。
 仕掛けたのが『兵団』だけであれば。
「『封結ロック・オン』」
 其れはその場に強引に留められる。縛る力の根源は、其れの顔面に生えた『伏兵』だ。非現実的なこと極まりないが、実際にその兇器はぴくりとも動こうとしない、むしろ抗えば肉が切られてしまう。
 よって『兵団』の命中率は跳ね上がった。しかし、其れの縫いとめられたものは得物に非ず。
 其れは、咄嗟に追撃を放った。体勢が整っていないために半減してしまった威力、だがビルをも粉砕する突撃が幾百も束ねられたものは一切合切薙ぎ払われた。
「――たかが斬撃ひとつに・・・・・・・・・、なんて、思いはしないさ」
 『封結』には限界時間というものがあるらしい。其れは追撃を終えると共に、移動の自由を取り戻した。今度は『伏兵』が仕込まれていないか、きちんと夜闇の続く彼方に目を配って、其れは少女に向く。
 其れは少女の言葉など無視だ。まず其れには、解りはしない。
「私の初期の力はすでに一度、たかが斬撃ひとつに・・・・・・・・・に圧倒されているからね。もう驚きはしない」
 少女も其れに向かって呟いているのではない。所謂、独語。
 もしかしたら、己の新たなる戦闘能力に挨拶しているのかもしれない。
「でもね、期待はしてしまうよ。――私にそうしたように、私のものとなって尚も、他者へそうするのではないかとね」
 戦闘能力の名は"バルムンク" 紫も棘も捨て、単なるロザリオと化したかのような白銀の片手持ち大剣。
 刀身の後を引く銀色の霧は、まるで新たに契約した主人を祝福するように周りを踊る。
たかが斬撃ひとつに・・・・・・・・・惚れてしまった。私のこれまでの価値観を、いとも容易くぶっ壊した。これだから、この非現実的さは大好きだよ。今も尚、好ましい」
 少女が次に行う演舞は、剣戟か。
 否――打ち鳴らす物など、総て、砂塵と化してしまう。
「『飛弧ヒコ』」
 見た目どおり。薙ぐのに特化しすぎた、強大が凝縮された弧月一閃が剣筋からはずれ、力の限り突き進む。
 途中にある障害は粉砕するのみ、という風だ。
 よって『飛弧』の放たれた先に謀られたために・・・・・・・いる敵、其れは粉砕の危機に晒される。
 少女の攻撃タイプが大剣の装備により極端に変わったのが、あまりに早すぎて付いていけなかったのか。はたまた"飛ぶ斬撃"というのが予想外だったのか。其れは身を捻って強引に回避行動を起こすも、攻撃範囲外に逃げ出すことは叶わず。ならばと咄嗟に突き出した得物の片腕を、間一髪、防御に間に合わせる。
 弾き落とされる其れ。防御に用いた得物は、『飛弧』によってつけられた傷痕から、瞬く間に消失していく。これでは二度と使い物にならなくなるどころか、持ち主に同じ運命をいたらしめることだろう。
 其れにも、何か予感めいた物が脳裏に走った。迷うことなく片腕を捨てるとすぐに、その片腕は銀色の霧となって其れを包み込んだ。
「――計四つ。妄想家でない私には、これで精一杯だ。よって、この度の遊びはここまでとして、次回またがんばるとしよう」
 視覚を麻痺させるその霧に乗じて、其れの背後をとる少女。
 霧が晴れた途端に、其れは傷の負った顔をぐるんと少女へ向けた。だが、遅かった。
「さよなら。君は、美しい顔を持つ道化師ピエロだったよ」
 『飛弧』が一閃。二度目は、今度こそ総てを砂塵と化した。


 何も起こらず、それどころか輝石が砕け散ってしまったために、男はぽかんと口を開けた。
「ほら、やっぱり」
 少女が嘲って笑った。そして、その拍子に歯止めが効かなくなって、まるで苦しみもがくかのように全身をのたうち回る。
 でも笑いは止まらない。何がおかしくてたまらないのか。
 男は、自分が侮辱されていると勘違いした。歯軋りし、地団駄を踏み、くそうと唸って、少女にジロリと目を下ろす。
 黙らせてやろうか。――男は、そういう考えが浮かんだという瞳をしていた。男の瞳は、どうやって黙らせるかという汚れた欲情に染まっていた。
 男の視線に気づいたのか、少女は熱っぽい吐息を(笑いすぎたために発熱したのだろう)漏らす。男に共鳴したのではない、むしろその逆。
「あなたじゃ無理よ。――何もできやしないわ」
 再び、少女が嘲り笑う。それと同時に、スッと伸ばした腕で男の片足首を引っ掴み、男を蹴躓かせた。
 男が頭を地面にぶつけたのか、ゴンッと音が響いた。
 仰向けに倒された男と、その上に即座に馬乗りした少女。
 淫らかなことなど何もない。男には、こちらの首根っこに両手を添える少女が、怖くてたまらない。
「今の、とても良い音よね。もう一度聞きましょうか」
 少女の手に力が込められる。男はくいっと持ち上げられるとすぐに、叩きつけられた。
 上下に揺さぶられた男の頭が、再び強打される。その衝撃に男は、恐怖すら忘れた。
「ハハハハハハ、ハハハハハッ!」
「ぃ――」
 だが連なってくる衝撃に、男は意識を引き戻された。
 連なりは、一度や二度ではない。しかも総て手加減なし。少女は男を殺さんばかりの連打を嬉しげに続ける。
 男は悟った。そして、口を開いた。
「いやアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッッ!」
 被虐の恐れに、男は狂った。
 加虐の悦びに、少女は狂った。
 だがそのどれも、一種の気のまぎれに過ぎない。二人とも、同じ感情を胸に秘めている。
 その一つの感情しか、抱いていない。残りはすべて、意図せず、悪魔に支払ってしまったのだ。
 その光景を、男の悲鳴を聞きつけてしまったために、見ることとなった者が一人。
 だがその者も、ある意味、ただの人間ではない。先ほどまで人間離れした空中戦を行っていた、"選ばれし者"の少女だ。
「……あいつらは?」
『音の宿主だった方々のようです♪ あ、でも、男の方は先ほど倒した"音っぽいもの"を宿していたみたいです♪』
「ふうん」
 興味無さげな少女に、天使は叱責の言葉を飛ばす。
『ふうん、ってなんですか!♪ 彼らは、音に興味を抱かれてしまったために運悪く被害者となってしまったのですよ♪
 音は人間に、いろいろと影響を及ぼしすぎるのです。そしてその影響には依存性があります。このままでは、彼らは再び立ち上がることができなくなるかも――』
「別にいいじゃないか。それよりも、疲れた」
 どんなに言葉を並べても、まるで危機感を持とうとしない少女の様子に、天使はしばらく呆気にとられた。
 そしてゆるゆると、理解した。
 少女は彼らを見捨てる気でいると。
 それは、天使にとって信じがたい事実だった。
 天使は、助けることしか頭に無かった。助けることは当然だと、思ってもいた。少女が助けようとしないはずがないと、妄信してもいた。
 妄信には、相応の根拠が存在する。それは少女自身だ。
「今日は成果がなかったから、余計に気苦労がかさむ。――一休みしてから、さっき倒した"音っぽいもの"のことについて詳しく話してもらうぞ」
 正義に徹しておきながらなぜ、と疑問が尽きないでいる天使は、黙っていた。少女はそんな天使をさらに裏切るように、泣き叫ぶ地上の彼らに背を向けた。
 行ってしまう、止めなければ。天使はそう思うも、有無を言わさぬような少女にはどんな説得も通じないだろうと、言葉を発するには至らない。
 絶望を抱いた。
 決め手は、次の少女の一言。
「どうした、天使。もっと喜ぶと思ったんだがな。折角、音を、嫌なねいろに変わってしまう寸前のところで採取できたのだから」
 笑顔をすら浮かべて言ってのける少女に、天使は吐き気をおぼえた。自分の気持ちを、あらぬ方向に勘違いされたことも、嫌気が差した原因だ。
 共にはいられない、と天使の心が決まった。
 天使は――決別するしかないと、思った。


 変身が解け、宙に放り出された私は、咄嗟に首を後ろに回し、天使を見た。
 正確には、天使だったであろう物・・・・・・・・・・を。
 白くて、春の陽射しのように柔らかそうだった天使の毛皮は、新たな色に染まってしまい、見る影も無い。
「――悪魔デビル
 天使の反対、と感じて思わず口に出た単語。
 まるでその一言を気に入ったように、天使の成れの果てである黒塊はニヒリと笑った。
 と、思う。
 なぜ不確かなのか、答えは簡単、すぐに視界が色の渦に塗りつぶされたからだ。
 私は重力に捕らわれ、落ち行く。

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